青色7号

思ったこと考えたことをひっそりこっそりそろそろと

コメット

 さよならって言葉、嫌いなんだ。

 彼女は濁りのない瞳で、そう言った。知り合って間もない日のことだったから印象に残っている。焼きそばパンを頬張りながら、確かに彼女はそう言った。

 

 彼女は大教室で突然声をかけてきた。確か映画史概論の授業だった。

「それ、どこの焼きそばパン?」

彼女が2年前の語学の必修クラスで見たことある顔でなければ、無視を決め込んだのだが。彼女は焼きそばパンが好物らしい。購買で探したのに売り切れだったらしい。そんな残念な距離の縮め方で、彼女と仲良くなった。食事をしたり、講義を受けたり。残念ながら構内に限られてはいたが。

 彼女はよく見れば美しかった。特に彼女の瞳は澄んでいた。濁りがない瞳とはまさにあれを言うのだろう。まっすぐに相手の内側を、向こう側を見通すように。が、その美しさを内に秘めるように、地味な(一歩間違えればダサいとも言えなくない)服をいつも好んで着ていた。

「オシャレな恰好って、窮屈じゃないの。自由に動きたいの。」

とんだ偏見じゃないか、と思ったが、自分も服装に関しては人のことを言えないので黙っておく。友達もあまりいないようで、大学構内で見かける時は大抵一人で本を読んでいた。休日の過ごし方を尋ねたら、「読書、散歩」という至極簡潔な答えが返ってきた。好物は焼きそばパンで、彼女はそれを食べている時に話しかけられるのを嫌った。焼きそばパンを100%味わい尽くしたいらしい。

 ある日、やはり映画史概論の授業の前、二人で焼きそばパンを頬張っている時に、彼女は先の言葉を放った。自分の耳を疑った。焼きそばパンを食べるときは、食べることにとことん集中する彼女が話したのだから。

「なんで?そりゃ、さよならを言うのは何かが終わる時じゃない。寂しいじゃない。」

混じりけのない瞳で、心底不思議そうに理由を述べた。

彼女のパンから紅ショウガがこぼれた。白い机に散らばった赤が、妙に鮮やかだった。

 その次の日からだった、彼女と連絡が取れなくなったのは。別段何か取り決めをして過ごしていたわけじゃないし、それで十分に楽しかったから、気が付かなかったのだ。僕は、彼女のことを何も知らなかった、LINEのアカウントすらも。しかし、僕は確かに彼女に恋をしていた。

 願えば叶う

そんなものは幻想だ、と思いたくなる再会を果たしたのは、彼女が姿を消してから2週間後のことだった。映画史概論が休講になったため、古書街に足を運ぼうとした乗り換えのターミナル駅で、彼女を見つけた。小ぶりなキャリーケースを引いていた。目が合った。彼女は一瞬目を見開いて固まった後、足早に逃走を試みた。

キャリーケースを引く彼女のどこにそんな力があるのか不思議に思うほど、身軽に構内を移動していく。ひらりとコートを翻して。まるで金魚の尾びれのように。

追い付けたのは、全力でホームを駆け上がってからだった。

「なんで」

息も切れ切れ、こう聞くのがやっとだった。彼女は少し気まずそうな顔をして、逡巡してから、こう言った。

「私ね、隠してたし、たぶん信じてもらえないと思うけど、金魚なの。もう長くないんだ。だから、帰るんだ、故郷に。」

故郷ってどこだよ。もう会えないのかよ。金魚ってどういうことだよ。

聞きたいことはたくさんあるのに言葉がつっかえて出てこない。

「お前が好きなんだ。」「だから、行くなよ。」

彼女の澄んだ瞳に、澄んだ水の膜が張る。

「私も、好きだよ。けど、無理なんだ。生まれ変わるなら人間がいいな。でも、人間って少し窮屈ね。」

「じゃあ、二人で金魚になろうか。今までありがとう。」

彼女は泣いても美しかった。

「ありがとう。」

電車が見えなくなるまで手を振った。彼女を無事に故郷まで運んでくれることを祈りながら。

 

スピッツの「コメット」という曲がお気に入りで、聴いていたら浮かんでしまったので、書いてみました。村上春樹の匂いがすごいですね(笑)文才ほしいです。