青色7号

思ったこと考えたことをひっそりこっそりそろそろと

死についてのあれこれ

「死」

この言葉を知らない人はおそらくいないのではないか。

日本語としての死は知らなくても、他の言語で知っているだろう、そう思わせるほどには一般的な言葉です。

学校では様々な場面で、作品で「死」の意味を考えさせ、あるいは正解を教えようとします。そして、大人が意図しない方法で(多くはいじめによって)その言葉の重みを痛感させられます。

死は悲しいこと、死は誰にも平等に訪れるもの

こう教えられることが殆どでしょう。

この場では、一旦模範解答から離れて、「死」について考えてみようと思います。

 

さぁ、「死」って何でしょう?

心臓が止まってること?息をしていないこと?生きていないこと?

おそらく現象でしょうね。物体ではありません。

では、この言葉をご存知ですか?

「死語」

おや、言葉が死んでいますね。言葉って生き物ではありませんよ?

言葉の綾で「生きた英語」とか言いますが、別に生命活動をしてるわけじゃない。

「死語」どんな言葉を連想しますか?

ナウい、ヤング、あたり前田のクラッカー…などなど。

でも、今私が挙げているように、これらの言葉を知っている人はまだ一定以上いて、「あー、懐かしいねーwww」とか盛り上がれる。

俵屋宗達

この名前を知っている人も多いのではないか。

金色の屏風に風神と雷神を描いた、琳派の祖。

彼の作品に影響を受けた者が、研究と研鑽を積んで、琳派という江戸文化随一の流派を作り上げた。琳派に属する絵師、芸術家は、その多くは独自に研究をしていった。門下に入っていたわけではない。

宗達の死後、なお、あの屏風に魅せられた人々が彼の背中を追い続けた。

 

さぁ、勘のいい諸氏は私が言わんとしていることに気が付き始めたのではないか。

そう。あたり前田のクラッカーも、宗達も「死んでない」のではないか。

「死ぬ」ということは、どんなことなのか、話を戻します。

先ほど例に挙げた「生きた英語」 、「生きてない英語」とは、実際に使われなくなってしまった英語ではないだろうか。表現にしても、文法にしても、シェイクスピアの頃の英語で現在商談は出来ないだろうし、自在に使える人の方がまれだと思う。

言葉や文法の変化で、「忘れていった」のだ。日本語にしても同じ話で、高校で古典文法をかろうじて学んでいるから多少読める状態にすぎない。「ウケる」とか「ヤバい」に相当する言葉が本当に何だったのか、正解を知る人はいない。

「死」とは、「忘れられる」ということ

だと思っています。

皆さんは昨日の晩御飯、何を食べたか思い出せますか?思い出せた人の中ではかろうじて、晩御飯の材料になった生き物たちは生きているけど、おそらくその材料を収穫、捕獲した人たちはすでにまったく覚えていないでしょうね。

「死」にタイムラグが存在するんです。権力者の「死」が隠されている間は、民衆にとっては権力者が生きていることと同じなんです。

「死」って、平等なものなのでしょうか?

技術が進歩してエンバーミングが大衆化する世の中になったら、実体としての肉体が再生出来るようになったら、死は、定義自体が大きく変わることになるかもしれない。逆に死は本当に平等なものになっていくかもしれませんね。

書いていて怖くなってきたので、ここでキーボードを打つのをやめます。

皆様もぜひご一考を。